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06 Interview TOMOKAZU MATSUYAMA

October 16, 2021
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Part.1 世界で活躍する松山智一のインディペンデント精神

 ニューヨーク・ブルックリンを拠点に、美術家として活動を繰り広げる松山智一。異なる時代や文化を融合し新たな解釈を加えることで昇華された松山の作品は、まさに境界が消失しつつある現代社会を捉えている。アートを通じて、人々に新しい景色を見せてくれる松山氏の作品は、近年、世界から注目を集める。その松山氏、実は「STRAYM」に関わる2人、長崎幹広とは中高の同級生であり、岡沢高宏とは原宿カルチャー時代からの友人でもある。インタビューは、この夏に松山氏が日本へ一時帰国をしていた際に行った。前半はストリート&ボードカルチャーに魅せられ、そこからアートへの道を進んでいった松山氏の経歴と自身のアートに対する考えを紹介。後半は、現在の日本のアートシーンと「STRAYM」について話を聞いてみた。(Interviewer : KANA YOSHIOKA)

―― アートをやられる前、大学時代はスノーボードをやられていたとお聞きしました。スポンサーがつくくらいの実力だったそうですが、ボードカルチャーにのめり込んでいった経緯を教えていただけますか?

松山智一 幼少期の経験から受けた影響です。小学校3年生から6年生までアメリカの西海岸に暮らしていました。当時80年代のアメリカは、若い世代が文化を担う黎明期でした。その中にスケートボードやサーフカルチャーが存在しており、自分が暮らしていたサンタアナ市は治安が決して良くないエリアでしたが、自分たちの日常が徐々にカルチャーとして確立していったという背景があります。当時は家族で集団住宅地に暮らしていたのですが、そこは移民が多かったこともあってか、決して裕福ではない、複雑な家庭環境を持つ子供達が多かったように感じます。ヒスパニック、黒人、アジア人が占める中で日本人は一番少なくて、僕はその移民の子供たちと仲良くしていたのですが、移動手段がスケートボードだったんです。安価なこともあり一家に一台みたいな感覚で誰でも持っていて、僕も熱中していきました。当時は今のようにスケートパークなどはなく、スケートボードができる場所を探すことからしないといけませんでした。週末の学校やアクセス許可されていない場所にフェンスを越えて忍び込んだりしていました。そのうちに自転車を買えるようになってから、BMXにスケートボードを積んで移動をする子も増えてきましたが、移動手段はたいていみんなスケートボードでしたね。

―― リアルに80年代の西海岸カルチャーを体験しているなんて、なんだか映画の世界のようですね。

松山智一 「TEENAGE SMOKERS」(*写真家エド・テンプルトンによる写真集)が捉えていたような、アメリカ西海岸で複雑な家庭環境を持つ子供達が居場所をもとめて集まってくる光景でしょうか。そうした環境ではキッズの世界の中でも年長者の影響力は強く、少なからず一般社会からずれて大人になる子供達が多い場所でした。その後、小学生6年の時に日本へ帰国し、暮らし始めたのが実家がある雪国の飛騨高山でした。ちょうど自分が中学生になった頃にスノーボードがカルチャーとして根ざし始めた時期でスケートボードの影響からやって見たいという思いがありました。なので、サンタアナから飛騨高山へ移り住んで、スノーボードをやったことは、自分の中では自然な流れだったんです。

―― そのときアートにはまったく興味はなかったのですか?

松山智一 中高の頃は、アートの「ア」の字もなかったです(笑)。部活が楽しくなってしまってスケートボードも中高時代には疎遠になっていました。帰国後、僕は全寮制の学校に入学したのですが、そこはスケーターが多い変わった学校で。千葉まで学校見学に行った際に、巨大なランプがあり驚いた記憶はまだ鮮明に覚えています。そんな単純な動機で入学しました。笑。そのランプを作った人が2つ上の学年にいた、田中友規ってRIP ZINGER(*ボードカルチャーを中心とした写真家)だったんですけど、彼が皆をまとめてくれていて、皆で少しずつお金を出し合って集めたお金でダブルランプを作るわけですよ。そんな学校だから、わざわざ都内から千葉までスポンサーのついているようなスケーターたちがこっそり週末に遊びに来てくれたりして、全寮制ながら東京との関係は少なからずともあった気がします。学内の雰囲気がその年代にしては少し前衛的だったので、原宿などの東京カルチャーとの関わり合いが徐々に深くなっていったのだと思います。僕の同級生に、渡辺陽平(*アーティスト、ファッションデザイナー)もいたりして、一緒にスケートボードをやってたりしていましたね。

―― スノーボードを始めたのは、高校卒業後だったんですね。

松山智一 大学の時に何かに打ち込みたいと始めたのがスノーボードでした。すぐにのめり込みスケートボードをやっていたからか感覚を掴むのは早かったようで、そのうちに全身スポンサーがついて、それで大学3年のときに休学してオレゴン州のマウントフッドのサマーキャンプ(Windell s snowboard camp)に参加しました。これを契機に以降数年間スタッフとして通訳兼コーチをすることになるのですが、その年の夏3か月間みっちり滞在し、できるだけスノーボードに専念できる環境を作りました。しかし、日本でのシーズンが始まる年明け早々に足首を複雑骨折し、夢が打ち砕かれるような経験をしました。そこからリハビリ生活を10カ月ほどすることになり、そのときに人生を捧げる情熱の対象ではないのだと痛感しました。

―― そうだったのですね……。怪我をされてしまった後に、ご自身の次の展開でアートの道を選ばれたわけですが、何かきっかけはあったんでしょうか?

松山智一 僕は、自分の表現の手段としてスノーボードをやっていたので、スノーボードを辞めても表現できるものを探していたんですね。それでデザインを習得するなら、競争が激しくより自分を磨ける場所に身を置きたいと考え、アートの本場でもあるニューヨークへ行こうと思ったんです。

―― ニューヨークではブルックリンにある、プラット・インスティテュートに行かれていましたけど、ノートリアスB.I.Gが生まれ育ったエリアの近くにある学校ですよね。

松山智一 そうです。治安はとにかく悪かったです。笑。とはいえ、NYではそうした場でこそ文化や新しいものが生まれると感じました。逆に今は安全な街になってしまい、昔を懐かしく思うこともあります。期待に胸膨らませNYでの教育を受けてみて思ったことは、刺激も手ごたえも非常に薄かったということでした。NYで生活を送ること自体の方が遥かにエネルギーを感じれたというか…。だから、学校で何を学べるかより、NYから何を吸収できるのか、どう成長できるかに自分の主軸が移りました。この頃に、デザインの勉強から作品を独学で作っていく転機となりました。

Bowery Mural Installation 2020 (New York)

―― それがうまく作用していったわけですね。ニューヨークでは、ストリートアートにも挑戦されていたと思いますが、どのようにアートに関して進化されていきましたか?

松山智一 ここで一つはっきりしておきたいのは、当事者は誰も自分が作っているものがストリートアートだと思っていませんし、むしろカテゴライズされることを嫌います。ただ、自分たちが信じる言語で作品を作っただけで、現場は思っている以上に過酷で、格好良いものではありませんでした。だから相手にもされなかったし、されようとも思っていなかったように感じます。だけどこれまでにないものを作っていて、それが確実に影響力を与えているという自負は強かった。『ビューティフル・ルーザーズ』って映画がありますが、社会に対する漠然とした鬱憤や、反骨精神と独立心が両立するメンタリティーの存在は共通しているかもしれませんね。迎合意識がそもそも低いんです。そんなとき2000年代初頭にこうしたエネルギーをいち早く理解してくれたのが、若いクリエイティブ・ディレクターであり、アーティストのマインドを理解しそれまでにはなかった企業とアーティストの関わり方を提案し、ぼくらは徐々に市民権を得ていったのだと思います。これまでのギャラリーに依存する以外には食べれらないというシステムから脱却した独立性が立証されたはじめた時代でした。やがてこうしたグラスルーツ的な活動をアート業界も注目するようになり、コンテンポラリーアートの世界に少しずつ足を踏み入れるようになります。

―― NYに暮らしながら、コミュニティ意識を持ってご自身の道を切り開いていった感じですね。

松山智一 そうですね。今みたいに作品が流通される時代ではなかったので、作家同士お互いのスタジオや家に泊り合い、展覧会に招待しあったり、こうして異なる都市であっても接点を生み出していくことで繋がっていきました。Brotherhood感が強いですよね。売れないから、刺激がほしいから、一緒に作品制作したり、とにかくコミュニティ意識が高かったです。良い時代でした。

―― その頃の経験が、現在の松山さんに影響を与えていることはありますか?

松山智一 独立性を維持し続けることと、世界へのプレゼンスは自身で図るということでしょうか。インディペンデントでありながら、発信し続けるということが自分の長所でもあるように思います。今、画廊とはパートナーシップを組んでやっていますが、自分のスタジオには20人近いスタッフがいて、パブリックアートをはじめ、様々なプロジェクトを同時進行しています。これまでの成り立ちと経緯があったからこそ、自分達の世代にはKAWSやBanksyのような規模感と社会的影響力を持ったプロジェクトを実現できるアーティストが多数存在するのだと思います。

―― ニューヨークでギャラリーを相手にアート活動をするということは、現代アーティストの仲間入りを果たしたことになると思いますが、ギャラリーと仕事をするようになって、作品作りに関しての方向性や考えを改めて考え直したりしましたか?

松山智一 NYでの活動が長くなり、ここでの生活やキャリアが築かれていくにつれ、ここで発信する者としての責任感のようなものを感じるようになりました。その頃から僕は「カルチャー」から「文化」、つまり今だけを見るのでなく、将来作品が残った時に当時の証明として存在できる作品を作りたいと思うようになりました。ギャラリーや美術館と仕事をしていく中で、これまでとは全く違う言語、文化背景を備えた人達とも接点を持つようになり、視野が広がったように思います。作品の方向性も、より自分のアイデンティティに対する問い(広義ではマイノリティーであることや日本人であることも含め、また狭義では自分の生い立ちを含めた一人の人間として)を追求するようになります。また自分が活動の拠点としているNYという場所が持つ意味合い、そして今という時代を生きることを考えて制作に向き合うようになりました。

「Hanao San」 2020 JR Shinjuku Station East Square

―― 松山さんの作品を初めて見たときに、他に見たことない! 圧倒的だなと感じました。

松山智一 一つ一つは慣れ親しみのあるものであっても掛け算が起こると鑑賞者は理解できなくなってしまうんです。だから僕の作品はどこか馴染みがあるようで、ないように写るのだと思います。情報量が多いのもそういった理由からです。NYには100の宗教と170の言語があると言われています。文化がここまで交錯しているこの場所では、異なる価値観がぶつかり合い、ギリギリの緊張感を保ちながら均衡が取れていて、だからこそNYには新しい価値観を受け入れるだけの度量があるんです。あらゆるものを飲み込んで拡大しているとも言えるかもしれません。ヒップホップやクラブミュージックが育ったのもそうして背景があるからではないでしょうか。そうした影響を僕は絵画を通して視覚化しているだけです。

―― そうした環境対応への柔軟さや適応能力があることは、成功の道を歩むひとつの秘訣かもしれませんね。

松山智一 基本は各々がニッチなんですよ。だけどニッチとニッチって組み合わせはあまり良くない。ただ、「接続詞」となるものが必要なだけです。それこそが僕ができる表現言語で現代社会を捉えることが出来ると考えています。現代美術の理論やストリートのアティテュード、原宿文化の革新性。自分はこれらの全てにおいて当事者だったので、ここには確固たる共通項があるんです。僕自身はそれぞれのフィールドを守り抜いてきたコアの先輩方ほど一分野における関わりが深くない分、接点を見つけることができる気がしています。翻訳家のような仕事が僕は今の時代を解説する上で大変有用だと考え、そこにすべての熱意を注いでいます。

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